柿本人麻呂ゆかりの地
柿本人麻呂ゆかりの地
後世に「歌聖」と称えられる飛鳥時代の歌人、柿本人麻呂。
千年の時を超え今も愛される情熱の歌は、江津市で生まれています。
柿本人麻呂と依羅娘子(よさみのおとめ)
情熱的な愛と別れの歌
-MANYOU-
柿本人麻呂と依羅娘子(よさみのおとめ)情熱的な愛と別れの歌
-MANYOU-
柿本人麻呂
-KAKINOMOTO HITOMARO-
柿本人麻呂
-KAKINOMOTO HITOMARO-

宮廷歌人である柿本人麻呂は、西暦660年頃に生まれ、700年代の初めに国司として石見の国に赴任したとされています。都からはるか遠くの石見の地で依羅娘子(よさみのおとめ)と出会い、妻に娶ります。柿本人麻呂の歌は、枕詞、序詞、押韻などを巧み使った拡張高い歌風で、数々の讃歌、挽歌、恋歌を詠んでいます。日本の和歌史上、初めて個の叙情を込めたともいわれる情熱的な歌が特徴です。
石見国から都に戻る時に、もう会えなくなるであろう依羅娘子との別れを哀しみ、妻を想う気持ちと美しい石見の風景を鮮やかに詠んだ石見相聞歌(いわみそうもんか)は、万葉集の中で恋歌の最高傑作といわれています。
依羅娘子
-YOSAMINOOTOME-
依羅娘子
-YOSAMINOOTOME-

依羅娘子(よさみのおとめ)は、石見の国の群庁があったと言われている江津市二宮町の恵良(えら)の里の豪族の御姫様だったといわれています。
都からきた柿本人麻呂と出会い、恋し、そして妻となりました。いつしか都へ帰らねばならぬ人麻呂との幸福なひと時は、たくさんの情熱の歌となりました。依羅娘子は、人麻呂が都に戻る途中に亡くなったことを後に知り、もはや会うことのできない哀しみを2種の歌にしています。
「今日今日と わが待つ君は 石川の 貝に交じりて ありといはずやも」
「直の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れ 見つつ偲ばむ」。
変わらぬ風景が残る町
-Landscape-
変わらぬ風景が残る町
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石見相問歌には江津周年の地名がいくつか歌枕(故地)として詠み込まれています。1300年の時を経て、建物等は当時と異なっていますが、雄大な日本海や山といった自然は、ほぼそのままで残っており、人麻呂が見たであろう景色を見ることができます。
江津市は全国におられる多くの万葉ファンや学者、研究者から「古代の相聞歌の世界に浸ることができる」という声をいただいております。是非、現地の風景を見ながら柿本人麻呂の歌に想いを馳せていただければと思います。


石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦は無くとも
よしゑやし 潟は無くとも 鯨魚取り 海辺を指して 和多津の 荒磯の上に か青なる 玉藻沖つ藻
朝羽ふる 風こそ寄せめ 夕羽ふる 浪こそ来寄れ 浪の共 か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を
露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈毎に 万たび かへりみすれど いや遠に 里は放りぬ
いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む 靡なびけこの山
長歌(万葉集 巻2 131)



つのさはふ 石見の海の 言さへく 辛の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる
玉藻なす 靡き寝し児を 深海松の 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば
肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の 黄葉の 散りの乱ひに
妹が袖 さやにも見えず 妻隠る 屋上の山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば
天伝ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる吾も 敷妙の 衣の袖は 通りて濡れぬ
長歌(万葉集 巻2 135)
万葉の世界を歩く
-Sightseeing-
万葉の世界を歩く
-Sightseeing-
万葉の歌碑めぐり全体MAP

12.人麻呂が見た景色:高角山
都濃(角)の郷にある高い山のことで、人麻呂が高角山と詠んだ山です。標高は470m。後の時代(8474年)に隕石が落ちたことから島の星山、星高山と呼ばれています。現在も中腹の冷昌寺の境内に隕石が保存されています。

13.人麻呂が見た景色:靡けこの山
「・・夏草の 思ひ萎えて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山」は、都に戻る人麻呂が「夏草が日差しを受けて萎れるように思い嘆いて私を慕っているだろう妻のいる家の門を見たい、なびき去れ山よ!」と情熱的に詠んだ歌です。古代人にとって山は精霊の宿る神秘の地として崇めていました。本来であれば畏れを抱く神々の住まう山に向け「靡け」と叫ぶほどの情熱は1300年を超え今も私たちの心に響きます。

14.人麻呂が見た景色:万葉の古道を行く(江西駅)
平安時代中期に編纂された「延喜式」によれば、都に通じる石見国の駅として、波祢(はね)、託農(たくの)、樟道(くすち)、江東(こうとう)、江西(こうせい)、伊甘(いかみ)の6駅があったとされます。この柿本人麻呂が歩いたであろう古道のうちの3駅が江津にあります。